となりの聖帝十字陵

ある朝目覚めると、私は怠惰であった。

 

それは唐突で穏やかで漠然と明らかであり、すぐさま私はなぜ自分が怠惰であるのかを探り始めた。

 

生まれつきでも育ちのせいでもなく、探し続けて3分、ついに自分から食欲が失せていることに気が付き、そこに怠惰くんの親権を押し付けた。

 

私はパンのみに生きるような人間で、そこから食欲を取り除けば生きることにも怠惰になろうもの。食が細れば後は死ぬのみ。

本当のところ、この頃は胃腸が弱っておりそれで食欲がなかったのだが、ついでに頭も弱かった私は、今が死時ヨロレライレヒ。布団から身を剥がし、自分の理想の死に様について思いを馳せた。

 

人の死に様において一番美しいものといえば言うまでもなく、胡座をかいて瞑想をすることである。

それが洞窟のような奥ばった場所ならなお良く、膝下に名もない花が咲き、顔を斜めに影が差し、ほほ笑みを浮かべ、鳥や兎がよってくればパーフェクトだ。花鳥風月、達人風味である。

 

思えば名のある人々は皆このような死に方をしており、ちょっと違うが私の好きな漫画”北斗の拳”の聖帝サウザー、そのお師さんオウガイも胡座に洞窟スタイルだった。間違いない、この死に方が一番かっこいい。

 

しかしながら私には一子相伝の拳もなければ聖帝十字陵を造ってくれる弟子もなく、自分で自分の金字塔を得ち建てるしかない。嫌な時代だ。

 

私は田舎に住んでおり、ちょいと行けば隣には人の住まぬような山があるため、そこで手頃な洞窟を探し断食をすることにした。この怠惰はいささかバイタリティ溢れる嫌いがある。

 

普段から走り込みをし9イニングを完投する気概のあった私はヌルスルと隣山を登っていき、数多の虫を潰し、噛まれ、土という土を踏破した。山は青々と生い茂り、私の新たな門出を祝福していた。

 

途中、家族や友達の顔がよぎらないわけではなかったが、天に帰るときが来たわけだし、人の手は借りたくなかったので、仕方がない。

ケンシロウだかラオウだかオウガイだか忙しい私は、卵を焼くときはジャギであったが、そもそも現し世にさほど未練を持っているわけではなく、あるとすれば目下の死に様ぐらいのものである。

 

しかし行けども行けども洞窟らしき洞窟はなく、あるのはタヌキの住むような小さい窖だけ。

しかも、その山には意外と民家らしきものがあり、形になる前に見つかり通報されると困るので、こんなところに家を建てるな、と憤慨しながら人通りの少ない場所をひたすらに探した。

 

まあおもしろくない。存外山の探索はつまらなく、特別なモノも何もなく、そんな山に私の金字塔は相応しくない。

 

結局、その山は人が探索し切るには広く、歩いているとだんだんお腹が減ってきたので私はアフタヌーンティーをしに山を下った。ちゃんとお腹は空いたので特に死に急ぐ理由も見当たらない。

胃腸と頭だけではなく意志も弱かった。

 

ちょうど1年ほど前のことである。