再来週、親知らずを抜く。
再来週、親知らずを抜く。
今日、歯医者に行ってきた。
他でもない親知らずを抜くためだ。
しかし私は不勉強なもので、昨日今日で抜歯するという訳には行かないことをそこで知り、レントンゲンを取り、お高い診察料を払って帰路についた。
次の予約は再来週だ。
私の親知らずは恥ずかしながら、現在すべて割れている。
ストレスが溜まっていたのか歯ぎしりが酷くなったようで、2年前の右の上を皮切りに、今年に入ってついに最後のソレが割れた。
事細かに事情を説明するなら、ある日の朝起きると枕元は火よりも赤く、口から欠けた歯が出てくる。火を見るより明らかに私は歯が割れたことを4度悟った。
指で崩壊のそのラインをなぞると、いっそうの喪失感が残るばかりだ。
しかし欠けた親知らず共は、存外私の生活に好影響を及ぼした。
彼らは気まぐれに私の脳に痛みを送ってくるが、これらが痛いときは私は現状の苦しいことを考えずにすみ、むしろココロが楽であったのだ。
炭酸を飲めば痛み、アイスを食べれば痛み、何はなくとも、痛む。
蛇口から漏れる水滴のように淡々と、ポツポツと、静寂な痛みだ。
苦しみは時に幸福であるらしい。私はその痛みにこそ、この2年を救われてきたように思う。
だが、どのようなものにも別れはあり、それが痛みであるならば尚の事である。
そもそも、この2年のあいだ気分が落ち込んでいた私は、"予約をする"ことや"コミュニケーションを取る"こと、あるいは"自分のテリトリーの外に出る"ことへの忌避感が凄まじく、とても歯医者への予約を取れる状態ではなかった。
その為彼らは欠けたままが常となっていた。
しかしながら最近は少し気が軽くなってきており、私は何かの節目を待っていたかのように、春休み真っ只中の今日この日に歯医者の予約をいれた。
春は定刻通り訪れ、それは電車のように正確なのだと、私は無意識に意識していたのだ。
たかだか親知らずでも抜くとなると急に別れが辛くなる。こんなことですら苦しいのだから日常の苦しみはヒトキワ推して知るべくもない。
思うに、今日レントゲンを見た時、私はこの親知らずたちにある種の自惚れに近い共感を抱いたのかもしれない。
そのレントゲンには一路に伸び、しかしながら大きな衝動に負かされてしまった奥歯が写っていた。
コイツラもまっすぐに生えなければこんな事にはならなかったのだ。他の人が抜く親知らずのように斜めに生えて、神経を圧迫するような悪ガキ共であれば、コイツラは欠けずにすんなりとその生を終えることができただろう。
この頃になって私は彼らを抜かない事こそが、"この世で最も尊い行為"ではないかと感じられずにはいられなかった。コージーカタストロフめいた私を、誰も責めることはないのだ。
この2年間、彼らは確かに私であった。
欠落したのはどちらの方であったのか、今の私にはよくわからず、しかして私は私の現代人という尊厳を守るために、虫歯の温床と成り得る裂傷を放置することはできなくなった。
私はふと思いを馳せる。
親も知らずに生えてきて、欠けてしまった彼らを、私すらも見捨ててしまって良いものか。
この答えのない悲しみのさなか、彼らはまた痛み、私の心を和らげるのだ。
もしかすると本当に欠けてしまったのは、私でも、私のイトシキ親知らず共でもなく、私自身の悲しみでもあったのかもしれない。
再来週、親知らずを抜く。